1998.6.15

 

ベートーヴェン : 交響曲第4番変ロ長調  交響曲第5番ハ短調「運命」

 

エーリッヒ・ラインスドルフ指揮:ボストン交響楽団

 

 

 

 ラインスドルフというと、私が音楽を聴き始めたころ(1960年代後半)、シャルル・ミュンシュ
の後任としてボストン交響楽団を率いていたのですが、いっこうに人気が出なくて、まるでダメ
指揮者の代表のように言われていたものです。当時シカゴ交響楽団を率いていたジャン・マル
ティノンも同様に人気がありませんでしたが、彼はシカゴを辞任したあとフランスに戻って面目
を一新したのはご承知の通りです。しかしラインスドルフは1969年にボストンをやめたあとも
パッとすることなく1993年に亡くなってしまいました。
 私もこの人のことは当時から全然注目していなかったのですが、1年くらい前のある日、中
古CD店でこのベートーヴェンの交響曲のCDを見つけて、安かったので何気なく買ったのです。
それで家に帰ってあまり期待もせずに聴いてみたのですが、実は一度聴くなりすっかり好きに
なってしまいました。中くらいの編成のボストン交響楽団の芯のしっかりしたタイトで充実した
響き、そこにラインスドルフのウイーン出身の指揮者らしい情緒が重なって、はつらつとしてそ
してどこか人なつっこいところがある演奏は、私にはベートーヴェン演奏の一つの理想郷のよ
うな感じがしてほんとうに楽しめます。でもこういった演奏は1960年代のアメリカでは一部の
人にしか受け入れられなかったのもわかるような気がします。しかし今ここは1998年の日本。
ぜひたくさんの人に聴いてもらってこの指揮者をもう一度見直してほしいと思います。

 

 

1998.6.5

 

モーツァルト : ピアノ・ソナタ 第7番 ハ長調  K.309(284b)

 

イングリット・ヘブラー

 

 

 

 イングリット・・・と聞くだけで心が暖かくなってきます。私が初めて買ったモーツァルトのピアノ協奏曲のLPが、ヘブラーの弾く23番と20番でした。特に23番はこんなに楽しくて暖かい曲があったのかと、すっかり気に入ってしまいました。(オケはロヴィツキ指揮のロンドン交響楽団。)まるで女子音大生が弾いているような何の衒いもない素直で優しい演奏。でも他の女流ピアニストにくらべて、世間での彼女の評価はいまいち。このピアノ・ソナタの演奏も、今時の女流によくあるような天才肌の才気煥発なところなど全くないし、モーツァルトの粋さを強調す
ることもありません。でもそれでいいんです。それがいいんです。親しい人が私のためだけに
そばで弾いてくれているような感じ。静かでインティメートな時間が流れて行きます。他人の評
価などどうでもいい。オーマンディの演奏はたくさんの人に聴いてほしいけど、ヘブラーの演奏
はあまりそう思いません。私だけが好きならそれでいい。

 

 

 

1998.5.26

 

ブラームス : 交響曲第2番ニ長調

 

シャルル・ミュンシュ指揮:ボストン交響楽団

 

 

 

 もう30年近く前、このレコードで私はアメリカのオケが好きになりました。(「私の音楽遍歴」

 

参照。)それまで何もわからず、音楽雑誌の評価などを鵜呑みにしてカラヤンやベームを聴い

 

ていましたが、この演奏で初めて私は“自分の好み”というものを自覚しました。最近やっと

 

CD化されたので、購入して久しぶりに聴きましたが、竹を割ったような明快さと白熱の推進力

 

に圧倒されたあの時の感動は、少しも色あせていませんでした。

 

 

 

 

 

1998.4.7

 

J・S・バッハ : マタイ受難曲

 

カール・ミュンヒンガー指揮:シュツットガルト室内管弦楽団

 

ピアーズ(福音史家)、プライ(イエス)、アメリンク、ヘフゲン、ヴンダーリッヒ 他

 

 

 

 私がオペラについてほとんど無知に近いのは、以前このコーナーで書きましたが、実のとこ

 

ろ声楽曲もそれに近い惨状です。やっぱり私は音楽を抽象的にとらえる傾向が強いのでしょう

 

か。でもそんな私でもグッとくる声楽曲といえば、やはり「マタイ受難曲」です。特に冒頭のコー

 

ラス、第一合唱が「見よ!」と出ると、第二合唱が「誰を?」と応え、そのやりとりが続く中に、

 

少年合唱がコラールを重ねるところなど、何度聴いても鳥肌が立つほど感動的です。

 

 この曲の初めて買ったレコードが、1964年録音のミュンヒンガー盤です。その後、カール・

 

リヒター盤(1958年録音)や、レオンハルト盤も手に入れましたが、このミュンヒンガーの中庸

 

をきわめた、誠実を絵に描いたような「マタイ」が、一番私の心にしみ入ってきます。

 

 

 

1998.3.27

 

ブラームス : 交響曲第3番ヘ長調

 

ジョージ・セル指揮:クリーヴランド管弦楽団

 

 

 

 セルというと「高潔」、「高潔」というとセルというのが、世間ではいわば決まり文句のようにな

 

っていて、私のようなコーケツでない人間は、この言葉を聞くだけでコーケツアツになりそうで

 

すが、これは多分大御所吉田秀和氏の影響だと思います。しかし、このコーナーのワーグナ

 

ー「指輪ハイライト」のところでも述べたように、セルの音楽を「高潔」という言葉で、純粋無垢

 

な“清く正しく美しく”というふうにとらえてしまうと、その本質を見誤るように思います。

 

 彼はアメリカで活躍しましたが、その内面は頑固なまでのヨーロピアンであったのではないで

 

しょうか。彼のやりたかったことは、ドイツ・オーストリアを中心としたヨーロッパ音楽の本質を

 

表現することで(但しフルヴェンやクナとは違う、彼独自のやり方で)、そのためには伝統にど

 

っぷりつかったヨーロッパのオケよりも、白無垢ともいえるアメリカのオーケストラの方が、ずっ

 

とやりやすかったのだと思います。ですからクリーヴランド管弦楽団という、当時はまだ個性の

 

ない二流のオーケストラを厳しく鍛え上げ、それによって自己の信ずる音楽を徹底的に実現し

 

ていったのです。その際、彼はそれを世間がどう評価するかなどということは、殆ど気に止め

 

ていなかったようで、そういうところは確かに高潔といえなくもありませんが。

 

 もうだいぶ前ですが、セル&クリーヴランドの演奏するバルトーク「管弦楽のための協奏曲」

 

のレコードが出たとき、レコード芸術誌の評者が「CBSはセルになぜもっとこのような曲(近代

 

現代曲)を録音させないのであろうか。彼らはこういった音楽が最も得意なのである。」と書い

 

ていましたが、これなど全くピントはずれの意見といわざるを得ません。なぜなら彼が目指した

 

のは、最初からベートーヴェンやブラームスだったのですから。

 

 ですから好き嫌いは別として、ここにあげたブラームスの交響曲などには、セルの主張が最

 

もはっきりと現れていると思います。フルヴェンやクナにあまり肌が合わない私にとっては、セ

 

ルこそ真正なドイツ・オーストリア音楽の表現者という気がするのですが。